コナン
今年のコナン映画を観てきました。ハイウェイの堕天使。めちゃくちゃ面白かったので、感想を書きます。

千速さんががんばってた
千速さんがものすごくがんばってましたね。今年の映画はもう、これに尽きると思います。今年の映画はどんな映画だったかと聞かれたら、千速さんがものすごくがんばった映画です、と答えます。というか、そう答えてあげたい。千速さんのためにも。それくらいがんばってました。
もちろん、それ以外にもたくさんありましたよ。突然屋根を失ってオープンカーになったミニパトには笑っちゃっいましたし(こう書いてても面白いですね)、いつにもまして哀ちゃんを便利屋扱いするコナン君にはキレそうになりました。ChatGPTにもあそこまで無茶な要求しないと思います。あとコナン君はもっと世良さんに感謝すべきですね。世良さんが工具持ち歩いてなかったら詰んでましたからね。コナン君、今度からは自分で工具持ち歩きましょうね。どうせ世良が持ってるだろう、じゃなくて。
千速さんががんばってた話ですね。
ひとつ確認なんですけど、千速さんってあんな無茶させていい人でしたっけ?千速さん、まだ初登場から間もないキャラですよね。最近原作をあんまり追えてないんでアレなんですけど、まだ原作でも2,3シリーズくらいしか出てきてないですよね?いくら何でも無茶させすぎじゃありません?コナン君が。「一つだけ方法があるよ」とか言ってコナン君が提案したアイデア、そんなわけがない力技すぎて、これを千速さんにやらせるの!?ってびっくりしちゃいました。
相手が赤井や安室ならわかるんですよ。彼らはもうコナン現場百戦錬磨のプロですからね。観覧車の上で格闘したり、車で電車の側面を走ってそのまま電車追い抜いたり、名古屋から山梨あたりを狙撃したり。さんざん無茶苦茶なことやってきましたからね。今回の提案も相手が赤井や安室なら、「ボウヤの提案にはいつも驚かされるな」とか、「まったく、君はいつも無茶な提案をするね」とかは一応言いつつも、口角はすでに半分上がっちゃってるでしょうね。そういう提案待ってました、と言わんばかりに。
ブラック企業に見えた
でも、今回は千速さんなんですよ。コナン映画の現場初めてなんですよ。初めてなのに、いきなりハードル高すぎませんか?本当に大丈夫?ちょっとブラック企業すぎませんか?千速さん、たしかに大型新人なんだとは思いますよ。即戦力タイプの。でもやっぱり、初めては初めてなわけじゃないですか。近年のコナン映画規模の大事件の現場は。
平次だってね、『100万ドルの五稜星』では飛んでるヘリコプターの屋根の上で剣道とかやってましたけど、いきなりあんな無茶やったわけじゃないですからね。『迷宮の十字路』では山道のバイクチェイスやお寺の屋根の上での切り合い、『から紅の恋文』では崖からバイクで大ジャンプ。少しずつ現場経験を積み重ねた結果としての、アレですからね。
それに対して千速さん。映画初登場にしていきなり赤井安室レベルの、もしかしたらそれ以上の活躍をいきなり要求されるの、ちょっと不憫で仕方なかったです。コナン君がパワハラ上司に見えましたもん。千速さんも迷ってましたしね。自分に本当にそんなことができるのかって。重悟にも正直に「自信がないんだ」って漏らしてましたしね。当然の感覚だと思います。『獣になれない私たち』を思い出しましたもん。今回のコナン映画、完全に火曜10時枠あたりのお仕事奮闘ドラマでした。
だからこそ、重悟から弟の最後の言葉を聞かされて、決意を固める千速さん、すごく胸を打ったんですよね。ものすごく応援しちゃいました。がんばれ!って。コナン映画であんな感情になったこと、今までなかったんじゃないかと思うんですよね。さっきも書きましたけど、赤井や安室ならあそこで迷わないんですよね。見てる側にしても、どうせ大丈夫だろうって思っちゃうんですよ。でも、千速さんはそうじゃなくて、どこか人間らしいんですよね。重悟のまえでは楽観的にふるまいながらも、失った弟のことを時折思い出し、まだ引きずってるのかとショックを受け、迷いを抱えながら頑張って前を向く、一人の人間としての千速さん。今回のあの大ジャンプの最中でも、そこにいるのはずっと同じ千速さんだった気がします。人間離れしてるけど、等身大のまんま頑張ってる感じ。
だからね、千速さんがものすごくがんばってたなって、それがすごく胸に残ったんですよね、今回のコナン映画。
主題歌がすごくよかった
そして、主題歌。MISIAの『ラストダンスあなたと』、これがめちゃくちゃよかったです。どうよかったかを説明するのは難しいんですけど、とにかくよかったです。映画を観てからずっとリピートしてるんですけど、千速さんががんばったシーンが浮かんできて、ジーンときます。
だからこそね、悔しいです、僕は。千速さんがこの曲を知らないことが。今すぐに教えてあげたい。千速さんのがんばりに、こんなに最高の曲がついてますよって。千速さんのために、あのMISIAがこんな良い曲作ってくれましたよって。千速さんこそこの曲を聴くべき人です。家でこの曲を流しながら、「がんばったな~」ってお酒飲んでほしい。
喜んでくれるとおもうんですよね。赤井や安室と比べてちょっと庶民的なところがあると思うんですよ、千速さんって。表向きはクールに振る舞うのかもしれないですけど、内心すごく喜んでくれる気がするんですよね。この曲を聴いて、少しでもがんばりが報われたなって思ってほしいですね。
そんなことを思った映画でした。また観に行こうと思います。

(おまけ。コナングッズみたいに売られるONE OK ROCKのハンカチ。)
本を読むのが好き
本を読むのが好きです。移動時間とか、暇があったら何かしら本を読んでます。
でもいわゆる本の虫とか、そういう感じではないです。暇だなって思って自分の家の本棚を見渡すと、なんかやたらと面白そうな本があるんですよね。それで、面白そうって思って、読むって感じです。ぜんぶ自分で買ったんですけどね。本屋さんにふらっと立ち寄るのが好きで、そうすると、つい3冊くらい買って帰っちゃうんですよね。でも読むペースはそんなに速くないんで、だからどんどん家の本棚に未読の本が溜まっていくんです。そうすると、なんかやたらと家に面白そうな本があるぞって状態ができて、なので、本を読んでるって感じです。
それと、本を読むのって結構気持ちいいんですよね。車の運転に似ている気がします。どういうところがっていうと、まず、YouTubeのショート動画が見れない。これに尽きると思います。脳の使い方がけっこう能動的なんですよね。読書も運転も。例えば映画を見るとかって、わりと受動的じゃないですか。目の前に映像が勝手に再生されてって、それを浴びせられるだけっていう。そうすると脳が退屈しちゃって、ついスマホに手が伸びちゃうんですよね。でも読書とか運転って、すごく能動的じゃないですか。自分で目の前の物語とか景色を追いかけないといけないんで。ああいう、一つのことに集中できる時間って、今あんまりなくなっている気がしてて、だから、すごくストレス解消になるんですよね、読書って。
YouTubeのショート動画とか、つい見ちゃいますよね、延々と。顔面にボールが直撃しちゃう少年とか、ジャンプしたはいいものの向こうに届かず落ちていく猫とか、ピカピカに磨かれていく革靴とか、また誰かに毒を吐いてる粗品とか、クザンが黒ひげ海賊団に入った理由は!?とか。いいんですけどね、こういう時間も。平和な証拠だなって思いますし。あとクザンが黒ひげ海賊団に入った理由は普通に気になりますしね。でもちょっと情報量多すぎて、疲れちゃいますよね。そういう時は本を読んで、目の前の物語を追いかけることにただ脳を没頭させると、すごくスッキリするんですよね。なので、本を読むのは好きです。
ただ、これは本が好きな人にしては珍しいことなのかもしれないんですけど、読み終わって、感想っていう感想が特にないんですよね。読み終わったら、読み終わったなって思います。あと、面白かったなっても思います。でも、感想っていう感想は特にないです。
長いんですよね、本って。ちょっと意味わかんないくらい文字ありますよね。一冊の本の中に。一枚一枚の紙ってすごく薄いじゃないですか。それなのにそれが本になるとあんなに厚みがあって、その全部のページにぎっしり文字が敷き詰められてるのかと思うと、正気かと思いますよね。ちょっと引いちゃいますよね。乳酸菌かよってくらい文字ありますもんね。だから、どこにどう感想をもっていいか、いまいちよくわかんないんですよね。ながすぎて。文字多すぎて。あれが実写映画とかになるとたった2時間とかに収まってるの、冷静に意味わかんないなって思います。普通に見るんですけどね。で、感動したりもするんですけど、それはそれとして、意味わかんないなって思います。あれはいったい何が起きてるんですかね。現代科学で解明できるんでしょうか。
一応、好きな作家さんはいます。川上未映子さん、津村記久子さん、あと柴崎友香さんが好きです。今もちょうと柴崎さんの『帰れない探偵』という小説を読んでます。探偵が自分の家に帰れなくなる話です。面白いです。どんなところがとか語りたいんですけど、よくわかんないです。よくわかなんないんですけど、面白いなって思って読んでます。面白いので、よかったら読んでみてください。
「あなたは何をしてはる人なん?」
僕が住んでるマンション、大家さんが屋上で家庭菜園をやってて、採れた野菜をたまにお裾分けしてくれるんですよ。マンションのエントランスに「ご自由にどうぞ」って書かれた紙と一緒に野菜の入った段ボールを置いてくれてて、たまにもらうんですけど、野菜の名前がわからないことがあるんですよね。
ピーマンとかナスはわかりますよね。あとトマトも。でも今日置いてあったのは、緑色のもしゃもしゃした草(葉といったほうがいいかもです)で、まあたぶんほうれん草なんでしょうけど、ほうれん草っていう確信が持てなくて、今日は野菜持ち帰れなかったです。
わかる人にはわかるんでしょうね。見た瞬間に、これは紛うことなきほうれん草だって。僕のほうれん草に対する解像度がそんなに高くないだけだろうなって思いますよ。でも、僕の言い分にもそれなりに分があるんじゃないかと思いますね。
だって、ほうれん草ってピーマンとかナスとかトマトとかに比べて、明らかにほかの野菜との境界線が薄くないですか?紛うことなきほうれん草ってさっき自分で書きましたけど、結構紛うことあるんじゃないかと思うんですよね。逆にピーマンとかナス、トマトはもう、紛うことなきですよね。ピーマンってピーマン以外と全く違いますもん。
野菜そのものみたいな見た目してますもんね。野の菜と書いて野菜ですけど、ほうれん草ってまんま野の菜じゃないですか。生成AIに「野の菜」って入力したら、たぶんほうれん草みたいな画像作るんじゃないですかね。知らないですけど。
実際、似た野菜が結構ありますよね。小松菜とか、あとケールとか、その辺ですかね。細かい話ですけど、ほうれん草と小松菜って似てるよね、という話ではないですからね。それは知らないです。そもそも小松菜の絵がちゃんと浮かんでないので。なんとなくは浮かんでますよ。でも雰囲気です。なんかその辺あるよなっていう。その辺あるよなが大事なんです。それだけで、これがほうれん草だって確信持てなくなりますからね。
僕、それなりに野菜と親しみある方だとは思うんですよね。毎日自分でご飯作ってますし。ほうれん草だって、おひたしにしたり、シチューに入れたり。キッシュを作ったことだってあります。でもやっぱり、ほうれん草っぽい野菜に対して、これは間違いなくほうれん草だって自信は持てないですね。
怖いですしね。ほうれん草だと思って使って、ほうれん草じゃなかったら。なんか野菜って、見た目ほぼ一緒なのに味は全くちがうみたいなの、結構あるイメージありません?僕はあるんですよ。だから、ほうれん草っぽい野菜を持ち帰れなかったという話です。
スーパーはすごい、僕はすごくない
で、そのあとにスーパーいったんですけど、スーパーはすごいですね。全部にちゃんと名札がついてますもん。これって本当にほうれん草なのかな、なんて迷うことがないですもんね。これは本当にありがたいことだと思いました。スーパーはすごいです。
でもスーパーは、初めからそれがほうれん草だとわかって入荷してるはずなんで、その辺はちょっとずるいなとは思いますね。僕とスーパー、どちらが野菜の初心者かというと絶対に僕の方であるはずなのに、なんで僕の方がハンデを負ってるんだ、とはやっぱり思いますね。その辺はフェアじゃないです。
まあそれはいいとして、僕は毎日ご飯を作ってるんですね。もう何年も。それなりに料理はできる方かなと思ってたんですけど、今回のことでやっぱりまだまだだなと思って、ちょっと落ち込みもしましたね。
だって、別にほうれん草って名前は重要じゃないですもんね。本当は。ほうれん草が持ってる味とか直感とかが、例えばシチューならシチューでいいですけど、その全体のマリアージュの中でうまく調和してるか、みたいなことが大事なはずですよね(マリアージュという言葉を使ってみました)。
とすると、今日エントランスで見かけたほうれん草っぽい野菜も、ちょっと味見してみて、これはシチューにあうぞ、と思えば使っちゃったらいんですよ。レストランのシェフは、そういうことをしてるんですよね。たぶんですけど。グランメゾン東京ではキムタクがそんなことをやってましたね。
それに比べると、まだまだだなと思いますね。レシピにほうれん草って書いてあるから、スーパーの「ほうれん草」って名札がついた売り場から、ほうれん草であるらしい野菜を取って、使ってるだけですもん。それで、シチューに入ったほうれん草はおいしいなぁなんて思ってるわけです。こう書いてみると、なんだかばかみたいですね。
こう書いてみれば、ですけどね。書くことで大げさになっちゃったパターンですね、これは。普通にこういう方は多いんじゃないでしょうか。なので、実際にはこう書いたほどばかみたいではないと思います。
和田アキ子さんに対峙できるか
話は戻りますけど、大事なのは「ほうれん草」という名前じゃなくて、ほうれん草が持ってる味や食感、風味ですよね。機能と言ってもいいかもしれません。それが同じものであれば、別に「ほうれん草」という名前じゃなくてもいいはずですもんね。
人間も同じかなって思います。初対面の人の名前だけ聞いても何もわかりませんもん。よっぽど珍しい名前だったら、その名前ゆえにこんな経験したんじゃないか、とかいろいろ想像が膨らむこともありますけど、だいたいは、何万もあるパターンのうちのひとつ、くらいの印象ですよね。
やっぱり、何やってる人なのか、っていうのが大事ですよね。仕事とか。別に仕事じゃなくてもいいんですけど。何もしてない、でもいいんですけど。何もしてないなら何もしてないなりに、何をしてるのか、聞きたいですよね。売れないバンドマン、とかでも、ほんとなんでもいいんですけど。
ほら、歌手の和田アキ子さんがよく、知らない人に「あなたは何をしてはる人なん?」って聞くじゃないですか。いや、知らないんですけどね。実際に和田アキ子さんがそう聞いてるシーンを見たことあるわけじゃないんで。ただ、モノマネ芸人の方が良くやられてますよね。なので、和田アキ子さん本人もやっぱりそう聞いてるんじゃないかと思います。
で、仮に僕が和田アキ子さんに「あなたは何をしてはる人なん?」って聞かれたら、やっぱり仕事の話をするかなって思いますね。こんな仕事をしてる人ですって。
逆に言えば、仕事を辞めてしまうと、困りますね。なんて説明したらいいんですかね。自分って何をしている人なんだろう、自分って何者なんだろう、と、ちょっと不安になりますね。和田アキ子さんからすると、僕と、僕以外との境界線っていうんですかね、そこ、はっきりしないんじゃないかと思うんですよね。区別できなくなるというか。そう思うとやっぱり、怖いですね。仕事やめるならやめるで、売れないバンドマンです、とか、やっぱり何か言えた方がいいんじゃないかと思ってしまいますね。でも、売れないバンドマンです、とは言えないですからね。まずバンドを組んでませんし。
そうすると、もうこの日記を見せることになりますね。ほうれん草っぽい野菜を見て、こんなことを考えてる人です、みたいな。でも、やっぱりそれもどうかと思いますしね。初対面でいきなり日記を読ませるのは。引いちゃうと思うんですよね。
というわけで、いま仕事を辞めてしまうと、仮に和田アキ子さんに対峙したときに困ってしまうだろうなと思うので、しばらく仕事はやめないと思いますね。
スタバ
さっきスタバ行ったんですけど、こういうカフェってほら、最初に席取ってから注文に行くことが多いじゃないですか。そういう時ってだいたい、椅子にバッグ置いたり、テーブルにハンカチ置いたりっていうのが定番だと思うんですけど、僕の斜め向かいに座ったお姉さん、テーブルに5kgの米袋のせて席取りしてました。
しかもカウンター席ですよ。ほら、独立した大きなカウンターテーブル、向かい合わせで8人とか座れるタイプの。そこに、5kgの米袋置いてました。
びびりましたね。これは誰だってびびるんじゃないかと思いますね。スタバで5kgの米袋を見たのが初めてだったんで。すごい浮いてましたもん。逆にスタバも初めてだったんじゃないですかね。5kgの米袋が持ち込まれたのは。異物感が凄かったですね。スタバの建物が人体だとすると、気管支に米粒が紛れてしまった時みたいな、そんな異物感でしたね。確実に咳き込んでましたね。スタバの建物が人体だとすると。米袋を米粒で例えるのはどうかと思いますが、まあでもそんな感じです。
で、飲み物持って席戻ってきて、どうするのかなって見てたら、そのまま5kgの米袋をテーブルに乗せたまま、飲み物飲んでましたね。30分くらいいたんじゃないでしょうか。30分間、ずっとテーブルに乗せたままでした。カッコいいなと思いましたね。カッコよかったです。あれは。僕だったら周りの目を気にしちゃいますもん。カッコよかったです。
逆だろとは思った
ただ、逆だろとは思いましたね。米袋買ってスタバ寄るんじゃなくて、スタバ寄ってから米袋買ったらいいのに。そういうこと、考えるじゃないですか。スーパーで2Lのお水と、ドラッグストアでシャンプーを買って帰りたいとき、先にドラッグストア行ってからの、スーパーだな、とか。2Lのペットボトルを持ってドラッグストア寄るのは大変なので。そういうこと、考えると思います。
もしかしたら、予定外のスタバだったのかもしれないですね。普通に米袋を買って帰る途中で、スタバに寄りたくなったとか。そういうパターン、ありますよね。帰り道にスタバの前を通りがかって、新商品とか色々出てますし、そういうの見てどうしても寄りたくなった、とか。
でも、僕だったら一度家に帰りますね。米袋買うくらいですから、家からそんな遠くないはずです。一度家に帰って、米袋置いてから、スタバ行きますね。僕だったら。
そんな変なことではないのかもしれない
ただ、ここまでの考察って、スタバに5kgの米袋を持ち込むのはちょっと変なことである、という前提がありますよね。もしかしたら、それ自体が僕の思い込みなのかもしれないですね。一度そこから疑ってみた方がいいかもしれません。僕たちはもしかしたら、もっとカジュアルに、5kgの米袋を色んなところに持ち込んでもいいのかもしれない。
例えばそうですね、映画館とか。膝に抱える形になるんでしょうね。映画はせめて、邦画を観たいなとは思いますね。洋画はこう、世界観と喧嘩しちゃいますよね。5kgの米袋は。
後はそうですね、美容室とか。びっくりはされるでしょうね。美容室って、最初に荷物を預かってくれるじゃないですか。そこで5kgの米袋を差し出す形になるので。そこはもう、びっくりさせてやるんだ、くらいの気持ちで行くのがいいんでしょうね。
もしかしたらあのお姉さんは、そういう人なのかもしれませんね。そういうお姉さんがいても、全然いいと思いますしね。
考えたら、なんか楽しそうですよね。ワクワクしてきますね。やってみたらいいんじゃないかと思いますね。この日記を読んでくれたあなたも。何か新しい発見があるかもしれない。
僕はというと、やらないですね。5kgの米袋は重いので。
ここが旅立ちでもいいじゃない
今日は僕の大好きな吉井和哉のライブ『ⅣⅣI BLOOD MUSIC』@Zepp Osaka Baysideでした。
本当に本当に良かったので、数年ぶりにこうしてブログを書いています。
*
そこにあったのは、圧倒的にケアの空間だった。
僕が創りたいと思っている理想の世界、その片鱗が、大げさじゃなくそこに見えた気がした。
ケアとは何だろうか。
僕がとても好きなケアの定義に「ままならないものに、巻き込まれること」というものがある(『能力主義をケアでほぐす』- 竹端寛)。
この世界を支配する能力主義なんて、実はほんのまやかしだ。
能力が完全に個人に帰属するなんてことはなく、絶えずその時々の状況や環境、関係性からの影響を受けながら、ある種の偶発性をもってそこに現れるのが能力だ。
そして何より、人間は誰しもが、ままならない脆弱性を抱えている。
努力すれば報われる=あなたは報われないのは努力が足りないからだ、とするような自己責任論に立脚する能力主義的世界観を解体して、それぞれが持つままならなさを前提にした、ケアを中心とする世界を創りたい。
その人のままならなさに、一緒になって巻き込まれること。
そうやって転がるように、絶えず関係性を変化させていくこと。
「ままならなくて大丈夫。うまくいかなくたって大丈夫。」
人の脆弱性を前提とした安心感を礎に、
ままならなさを一緒になって抱え、時に悩み、時に楽しむこと。
それがケアだと思うし、そうやって関係性、広く言えば社会は、
一歩ずつでも包摂性に向かって前進していくんだと思う。
*
咽喉がんを患って以来、根治はしたものの、吉井さんの喉はままならないものとなった。
その日になってみるまで、のどの調子が分からない。
調子よく歌えることもあれば、すぐに枯れてしまうこともある。
ライブが始まると同時に、毎回くじ引きをしているような感覚だと思う。
そして今日のライブ。
3曲目『トブヨウニ』という楽曲で、吉井さんの声は早くも完全に枯れてしまった。
ボーカリストの喉が枯れてしまったライブというのは、吉井さんに限らず、これまでにも何度か経験したことがある。
あれ、今日声の調子悪そうだぞ。大丈夫かな。これからまだたくさん激しい曲用意してるだろうに。最後まで歌いきれるのかな。いや、別に歌いきれなくてもいいんだけど、とにかく心配だな。心配が伝わっちゃってないかな、プレッシャーに感じたりしてないかな。大丈夫、ちゃんと楽しんでるよってちゃんと伝わってるかな。
そんな思いを胸に抱えながらもライブは進み、序盤の不調が嘘みたいに喉が復活したこともあれば、復活こそせずとも最後まで歌いきる姿に感動したりしたこともある。
その時々でいろんな思い出があるけれど、今日のライブはそのどれとも違っていた気がした。
お客さん全体が、吉井さんの喉の不調を受け止める度量というか、心構えが違った気がしたのだ。
たぶん、吉井さんが咽喉がんを患ってから東京ドームでの復活ライブまでを追ったドキュメンタリー『みらいのうた』の影響が大きいんだと思う。
それは、吉井和哉の喉の「ままならなさ」を克明に刻んだものだった。
東京ドームに向けたリハーサルの日々。
昨日は通しで行けたと思ったら、今日は序盤で枯れてしまう。その繰り返し。
明日の予測なんて当然つかず、ライブ当日までにどれほどかいふくしているかの見通しも立たない。
そんな、ままならない喉を抱えながらのライブ当日。
多少枯れながらもとても調子がよさそうで、最後までやり通せたのはほとんど奇跡のようなものだったと思う。
そして今日の吉井さんソロライブ。
おそらくお客さんのほとんどは『みらいのうた』を鑑賞済みで、吉井さんの喉が「ままならないもの」であることを知っていたんだと思う。
OK、今日はそんな日ね。大丈夫。休み休みでもいいから、ゆっくり、できるペースでやっていこう。できなくたっていいから。
そんな暖かな空気感が、会場全体を包み込んでいた気がした。
別に心配なんてしない。そういうものだって知ってるから。吉井さんが苦しければ一緒になって歌う。手を振り上げて、全力で楽しむ。大丈夫、とっくに心の準備はできている。歌えなくたっていい。大丈夫。どうなったって、僕らはこの時間を楽しめる。
もちろん吉井さん自身はとてもプロ意識の高いかただし、何よりライブや歌うことを愛している方なので、申し訳ないとしきりに謝られたり、絶対に治すから!と宣言こそされていたけれど、そこに過度のプレッシャーや緊張感はなかった。
堂々と吸引機で喉のケアを行ったり、発声をしたり、ゆるいMCで喉を休めたり、苦しかったら一緒に歌って助けてね、と衒いなく僕らを頼ってくれたり。そこにあるのは喉がままならないことを前提にした、安心感のあるステージだった。
そして、そんな吉井さんの喉のままならなさに、一緒になって巻き込まれてやろう、楽しみながら、今の吉井和哉と私たちにできる理想のライブの在り方を、一緒になって作っていこうという、観客からのケアのまなざしだった。
大丈夫だ、と思った。
この先どうなろうとも。
もちろん吉井さんの喉が回復するのが一番だけれど、それにどれだけ時間がかかったって、たとえ完全な回復はしなくたって、どうなったって大丈夫だと思った。
どうなったって、僕らはその時々で、ままならなさにもまれながらも、最高のライブを創っていける。最高のライブを、そのやり方を、見つけていける。
声が枯れてしまった3曲目、『トブヨウニ』。
絞りだすように歌った「ここが旅立ちでもいいじゃない」という歌詞に、嘘みたいに涙が止まらなかった。
ここが旅立ちでもいい。
本当にその通りだと思う。
これから先、僕らの身に何が起こるかなんてわからない。
当たり前だったことが、当たり前ではなくなってしまうかもしれない。
だけどそれでも、大丈夫。
ままならなさに巻き込まれながら、何度でもそこを旅立ちにしよう。
そうやって、転がっていきながら、絶えず僕たちの関係性を創っていこう。
そうすれば何が起きたって、絶対に大丈夫。
心からそう思えた夜だった。
ベルサイユのばら
映画『ベルサイユのばら』再上映@下北沢トリウッドを観てきた。
もう三度目くらい。Twitterに書き込んだ感想のまとめです。

「人は皆生まれながらに自由であり平等なのだ」という理想のため、人民と共に立ち闘ったオスカルの意志と勇敢さが、時も地も離れた今のこの世にもどこか生きている気がして、何度観ても勇気をもらえる大好きな映画。
与えられた使命ではなく、自らの目で見て、肌で感じたものから、自らの使命を問い直し、もがきながらもそれを見つけてゆくオスカルの誠実さ。そしてベルサイユとの決別、アンドレの愛、全てを背負い、自らの信念と使命のためにバスティーユを襲撃するクライマックスは、何度観ても毎回新鮮に泣いてしまう。
人が皆生まれながらに自由で平等な世の中なんて、今日に至っても未だ実現されてはいなくて、だからこそ、オスカルの想いが静かに息づくバトンが、今を生きるわたしの手にも託されている気がする。今日に至るまでの、たくさんの人たちの、たくさん想いを連綿と紡ぎながら。その尊さを映画鑑賞後も折に触れて思い出し、思わず泣きそうになってしまう。
私たちは自由と平等を巡るとてつもなく長い道のりの途上も途上にいて、一歩ずつでも前に進みたいし、そうやってバトンを次に手渡したい。そういう気持ちを何度でも新たにできる、大切な大切な映画。
戦争が起きている
『同志少女よ、敵を撃て』という小説を読んだ。第二次大戦におけるソ連対ナチドイツの戦いを、若くしてその戦禍に身を投じることになったソ連の狙撃兵、セラフィマの視点で描いたもの。結構前からちょくちょく読んでいたんだけど、後半、思いがけず(それも最悪な)時流と重なる形になってしまった。
本の感想や評価を書きたいわけではないので、その詳しい内容だったりについては割愛するけど、ただ、やっぱりどうしてもウクライナ情勢について思わずにはいられなくて、複雑な心境で読み終えた。
途中、読み進めれば読み進めるほど、主人公セラフィマへの感情移入が強まっていく。セラフィマの狙撃部隊がドイツ軍に劣勢を強いられると焦燥に駆られ、敵を倒し無事に帰還すれば安堵する。ごく自然な心の動きのようで、これ、客観視するととても怖いことだな、と思う。たまたまセラフィマを主人公に据えた物語を読んでいるのでこうなってはいるが、ドイツ軍の属する人物の物語を読めば、焦燥と安堵を感じるタイミングは全く逆になっていたかもしれない。そう気付いた時、ゾッとした。多分、(戦争を経験していない身で知ったようなことを言うけど)それが戦争の怖さなんだと思う。自身の生き死にがかかった、戦場というこの上なく過激な状況は、敵も自分と同じ人間であるという事実を忘れさせてしまう。むしろ、意図的にでもそうならないと生き残ることができない、と言った方が正確かもしれない。
ポルノグラフィティの『敵はどこだ?』という曲の歌詞に
狙いをつけて 撃ち抜く瞬間
決して目と目を合わせてはいけない
もしもそいつの瞳の奥に
恋人への残した想いを見つけてしまったら…
という一節がある。
この小説においても、人間を殺す、という行為に対する葛藤が克明に描かれていた。そして、そんな葛藤を捨てきれなかった兵士から順番に死んでいく様子も。
人を人として見てはいけないのだ。目の前にいるのは人ではない。敵だ。そこにバックグラウンドなどは存在しない。敵対する国家の、凶悪な目的を遂行するため、隙を与えれば自分を殺しにかかる敵だ。敵を殺すというその一点のみを迷いなく実行するため、思想や行動をプログラミングされた、コンピュータゲームにおけるC P Uと同じだ。目の前の人間を、そうしたいくつものラベルで分厚くコーティングして、その正体を入念に覆い隠さなければならない。さもなくば殺される。その果てにあるのは侵略、そして支配だ。戦争に負け、自国が支配されれば、多くの国民が(ある種の正当性を持って)その人権を侵害される。殺される。だから、殺さねばならない。
人を殺してはならない、という、普遍的で揺るぎようがなく思われる正義ですら、例えば林檎を手放せば地面に落ちていくような絶対的な物理法則とは性質が異なっていて、所詮、時の社会を形成する大多数の合意によって作り上げられるものに過ぎず、それは社会が異なれば容易に変容してしまう。こと戦時下においては、自国民を守るため、目の前の敵を殺すことこそが正義だ。そうしなければ、守りたい命を守れないのだ。
持つべき正義を自分で選べない。
目の前の人間を、人間として尊重することすら許されない。
それが戦争というものなんだろう。
こんな辛いことってあるだろうか。
小説はあくまでも小説で、これがどこまで戦争のリアルを描いたものなのかについては確かめようもないけど、でも、概ねそういったことが起こっていたんだろうと思う。
そんな戦争も終結し、僕は戦後を生きている。
先の大戦から学ぶことがあるとすれば、それはやっぱり、人を殺してはいけない、ということなんだろう。失われた命を取り戻すことは決してできないからだ。人を殺してはいけない。ごくありふれた、月並みな言葉だ。だけど本当に、それ以上でもそれ以下でもないと思うのだ。この、月並みで、シンプルで、これ以上ないほど簡素なこの言葉を、時代や社会の変化にも左右されない、強固なものにしていかなければならないのだ。だからこそ、人を殺さざるを得ない状況を作り出す戦争だけは、絶対に起こしてはならない。綺麗事のように聞こえるかもしれないけど、本当にそう思うのだ。
終戦とはなんだろうと考える。国のトップが終戦を宣言し、それで、終わったのだろうか。終戦後も、身体的・精神的な後遺症に苦しむ人がいると聞く。学生時代の修学旅行を思い出す。訪れた長崎や広島の地には、二度と戦争を起こしてはならないと、その悲惨さを伝える人がいた。彼ら彼女らにとっての戦争は、もしかしたまだ終わってはいないのかもしれない。戦争から学ぶべきことを学び、二度と戦争の起きない平和な世界を実現したその時こそ、終戦と呼べるんじゃないかと、そう思ったりもするのだ。そうであれば、道半ばなこの世界に生きるこの僕も、紛れもなく平和実現への責任を担う当事者のひとりであると思わずにいられないのだ。
今、遠いウクライナの地で戦争が起き、人が殺されている。
ロシアによる侵略が始まったとの一報を聞いて以来、明らかに鬱が加速し、眠れない日が続いている。それは現地にいる方々のそれと比べればあまりにもちっぽけなものだが、僕なりに、戦争の痛みを身体で感じているのかもしれない。
僕にできることはなんだろう。
Googleマップを開いてウクライナと打つ。画面に表示される、日本からの果てしない距離が、戦争という巨大な問題と僕一人の力量との差を表しているようで、項垂れてしまう。
だけど、戦争に反対する意思を示すことが、ほんの少しでも平和への助力となり得るのであれば、それをここに書いておきたいと思う。
私は、ロシアによるウクライナへの侵略戦争に反対します。そして、一刻も早い戦争の終結を望みます。