永遠とか

時間とか、そういった概念がめちゃくちゃ怖い。

 

うまく説明する自信はないのだけど、自分への備忘録的に書いておきたいなと思う。久々にブログも発掘したことだし。

  

これはもう小学生とか、そんなレベルでずっと前からそうなんだけど、永遠ってことは例えば1億年先にも変わらず明日があるんだよな、とか考え出すと、怖くて眠れなくなる。

 

1億年先にも明日があって、そのまた1億年先にもやっぱり明日があって、、、いつまで続くんだろうか、と思うけど、いつまでも続くんだよな。永遠ってそういうものだから。めちゃくちゃ怖い(余談だが"一億年先にも明日があることを思えば部屋を満たす永遠"という短歌も作った)。

 

僕は昔から心霊系の映画とかドキュメントとかがすごく苦手なんだけど、これは幽霊に会ったら死に引きずり込まれるから、みたいなことではなくて、幽霊の存在ってすなわち死後も意識が残る場合が存在することの証明になってしまうからだ。そうなると先に書いたような永遠が、単なる仮想概念ではなく、いつか直面する未来になってしまう。めちゃくちゃ怖い。同じように天国とか地獄といった概念も苦手だ。

 

少し怖さのベクトルとしては変わってしまうが、永遠というのはつまり時間が無限に続くということで、この無限という概念は人間にとって相当に厄介だ。人間は知能がある故に理解できないものに恐怖を抱く、という話をどこかで聞いたことがあるが、無限は理解できない概念の筆頭だ。

 

無限ホテルのパラドクスという話がある。ヒルベルトという数学者が提唱した、数学における無限という概念が現実世界に持ち込まれると途端にその解釈が難しくなるよね、といったことを、無限ホテルという例を用いてうまく説明した擬似パラドクスだ(実際に論理的に矛盾があるわけではないが、感覚的に矛盾を感じてしまうパラドクスを擬似パラドクスという)。

 

ここに客室が無限にあるホテルがあり、現在このホテルは満室であるという。ここに一人の客が訪れた場合、この客を泊めるにはどうしたら良いか、という問題を考える。現実にあるホテルの部屋数は有限であり、満室であれば新しく客を泊めることはできないが、無限ホテルではそれができてしまう。

 

どうするのかというと、1号室の客を2号室に、2号室の客を3号室に、といった具合に、全ての客に自分の部屋番号+1の部屋に移動してもらう。そうすると1号室が空くので、ここに新たな客を泊めることができる、という寸法だ。満室なのに新たな客を泊めることができる、というのが一見パラドクスのように見えてしまうのだが、現実のホテルには最後の部屋というものがあり、このような現象は発生しないので安心して良い(無限ホテルには最後の部屋なんてないのでこんなことができてしまう、怖いね)。

 

無限ホテルのパラドクスをもう少し数学的に説明すると、これは実は、要素が無限に含まれる集合の、その個数の話をしている(個数はもちろん無限なので、正確には濃度、という言葉を使うのだけど、簡単に個数と言っておく)。例えば、日本人という集合に含まれる要素の個数は1億2千万だよね、とかそんな話だ。

 

無限ホテルに客を泊めるというのはつまり、客の数を数えることに相当する(さらに数学的にいうとこれは全単射となる写像を作ることに相当するのだけど、この辺の話はむずいので割愛する)。わかりやすく有限ホテルの例を出すと、1億2千万号室まであるホテルに日本人全員が泊まりきり、かつ満室になれば、日本人の数は1億2千万人だよね、と言った具合だ。この方法で、無限人の客を数えてみる。

 

無限ホテルの部屋番号を1号室、2号室、3号室、、、とする。そして無限人の客には1番、2番、3番、、、とネームプレートをかけてもらう。1番の客には1号室に、2番の客には2号室に、3番の客には3号室に、、、と言った形で客を泊めればこのホテルは満室(全ての部屋番号の部屋に同じ番号の客が泊まっている)になるため、無限ホテルの部屋の数と無限人の客の数は同じだと言えそうだ。

 

ここに新たにやってくる客を0番とする。先に紹介した操作というのはつまり、1番の客は2号室に、2番の客は3号室に泊まり直してもらうというもので、こうすると1号室が空くため、ここに0番の客が止まることができる。するとこのホテルは再び満室(全ての部屋番号の部屋に、部屋番号から1引いた番号の客が泊まっている)になるため、再び無限ホテルの部屋数と、先ほどから1人増えた無限人の客数は同じであると言えてしまう。

 

すると何が起こるかというと、最初の客、ネームプレートでいえばつまり【 1, 2, 3, ... 】という集合に含まれる要素の個数と、一人増えた客、つまり【 0, 1, 2, 3, ... 】という集合に含まれる要素の個数は同じである、ということが言えてしまうのだ。これが有限の集合であれば、もちろん前者の集合と比べて後者の集合の個数は1多くなるのだが、無限の集合であればこういうことが起きてしまう。これくらいだと、まあ無限なんだしそんなもんじゃない?と思えなくもないが、それを真面目に論証したのがこの話だ。

 

この話をさらに発展させると、だんだん感覚と合わなくなってくる。例えば、【 1, 2, 3, ... 】という集合(要するに自然数)と、【 ..., -3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, ... 】という集合(要するに整数)の個数も同じになる。こうなるともうわけがわからない。

 

現在このホテルには、1号室には0番の客が、2号室には1番の客が、、、と言った形で満室となっている。ここに ー1、−2、−3、、、というネームプレートをかけたやっぱり無限人の客がきたとしよう。

 

この場合は、0番の客は2号室に、1番の客は4号室に、2番の客は6号室に、、、といった具合に、つまり、自分の番号に1を足して2倍した部屋番号の部屋に移ってもらうといい。そうすると埋まっているのは部屋番号が偶数の部屋のみとなり、部屋番号が奇数となる部屋(これまた無限にある)は全て空くため、−1番の客は1号室に、−2番の客は3号室に、−3番の客は5号室に、、、と言った具合で部屋に入って貰えば、この無限人の客を新たに泊めることができる。

 

というわけで、【 ..., -3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, ... 】の客たちでこの無限ホテルが満室となったため、自然数の個数と、整数の個数は同じになる。これくらいトリッキーでウルトラC的な操作を行えば、例えば奇数の個数と、偶数の個数と、それらを合わせた整数の個数だって全て同じになってしまう。わけがわからない。この辺の感覚との合わなさこそ、無限ホテルが擬似パラドクスである肝の部分であり、無限という概念を実感を持って理解するのがいかに難しいかという所以である。

 

だいぶ遠回りしてしまったけど、もう一度永遠の話に戻ってみる。 

 

永遠というのは時間が無限に続くことであり、無限ホテルの例と合わせて考えてみると、今日から起算した全ての日数が、奇数日後の日数、偶数日後の日数とそれぞれ同じになってしまうのだ。

 

もっと言えば、幽霊とか天国地獄とかどんな形であれ死後も意識が残ってしまう場合、明日の自分、明後日の自分、明々後日の自分、、、と数えた自分の人数と、1日後の自分、3日後の自分、5日後の自分、と数えた自分の人数が同じ、ということになってしまう。数学の世界だからギリギリ、まあそういうもの、なの、かな、、、?と許容できた話が、自らに降りかかる現実として現れてしまう。ああ怖い。めちゃくちゃ怖い。

 

これは結構切実な問題だ。いや、明日の自分と明後日の自分を区別できるのか?という疑問もあるが、僕の場合は結構区別されて感じてしまう。個人的な感覚として、例えば昨日の自分は昨日の自分として、今日の自分とは別に存在しているように感じる(過去は過ぎ去った時間として消失するのではなく、この世界に別レイヤーとして存在し続けているみたいな感じ)ので、同様に明日の自分、明後日の自分も、今日の自分とは区別されてしまう。

 

しかもたちの悪いことに、その未来の自分も、今日の自分とは別にすでに存在しているようにも感じてしまう(これも別レイヤーとして)。例えばなんだけど、昨日には昨日を現在だと認識している自分が確かに存在していて、今日になった自分が思い返してみればその自分はすでに過去の人間であるわけなんだけど、昨日の自分はそこを過去ではなくやっぱり現在だと認識している。ならば本日21時28分現在、今を今と認識している自分もすでに過去の人間なのかもしれなくて、ならば今を今たらしめる所以みたいなものを僕はどこに求めたらよいかわからないのだ。デカルト風に言えば「今思う故に今あり」みたいな、自らの思考、という絶対的根拠が崩れてしまって、簡単に言うと僕は過去/現在/未来の区別があまりついていないのだ。

 

僕が肌感覚として感じているこの辺の話、調べてみると最近の物理学では結構正しいらしい。びっくり。

 

時間は連続(水の量や空の高さみたいに)なように見えて実は最小単位が存在していて(リンゴを1個2個と数えるように)、僕らが過去/現在/未来だと認識している全ての一瞬一瞬が時間の粒として同時に存在しており、それらがネットワークを構成している、みたいな話だ。ちょうど紙芝居をイメージするとわかりやすいかもしれない。過去の場面、現在の場面、未来の場面へとスライドされることによって画面の中では時間が進んでいるように感じるが、実際には全ての場面が同時に存在していて、この場面の次はこの場面、といった関係性によってネットワークが作られている。次の場面に進んだからといって、前の場面を描くスライドが燃えて消失するわけではないし、次の場面は紙をめくった途端突然現れるわけではなく、現在のスライドの後ろにすでに控えている。

 

これ以上説明を続けると間違ったことを書いてしまいしそうなので、この辺の話をわかりやすく説明したページを貼っておくことでお茶を濁したい。

 

honz.jp

realsound.jp

 

この説の提唱者であるカルロ・ロヴェッリ曰く、「時間を不可逆的に流れていくものとして感じてしまうのは、我々がこの世界について無知であるゆえだ」とのことらしい。すごいこと言うな。

 

というわけで先に書いたような話(明日の自分、明後日の自分、明々後日の自分、、、と数えた自分の人数と、1日後の自分、3日後の自分、5日後の自分、と数えた自分の人数が同じ云々)は、仮に永遠というものがあった場合(つまり、この時間の粒の数が無限であった場合)、これはいつか起こるかもしれない未来の話ではなく、すでに起こっている現実なのだ。ああ怖い。めちゃくちゃ怖い。実際に自らの身に降りかかっている現実であるにもかかわらず、この圧倒的な解釈の仕切れなさが死ぬほど怖い。

 

再び怖さのベクトルが変わってしまうのだけど、現在と共に全ての未来が同時に存在しているというこの説を支持すると、僕の周りの全てがあらかじめ決まっていた単なる現象になってしまう、という怖さもある。さっき落としてしまった携帯とか、それだけならまだしも、友達や恋人の言葉とか、僕以外の全ての人の言動さえ単なる現象に見えてしまう。

 

この僕ももちろん現象なんだけど、どうしても自分のことだけはそうは思えない。僕は僕の思考を感じることができるからだ。それも含めて現象に過ぎないのだと頭では理解できるが、どうしても体感として納得することができない。孤独だ。究極の孤独だ。めちゃくちゃに怖い。

 

最近はずっとこんなことを考えていて不眠がひどい。心療内科に行けば、眠剤も出すけど根本的な悩みからちゃんと遠ざかるように、みたいなことを言われたりもするけど、こんなのどうやったらいいんだ。

 

だいたい書きたいことは書き終わったので読み返したみた。ほら、

ならば本日21時28分現在、今を今と認識している自分もすでに過去の人間なのかもしれなくて

 とか書いてた自分はもう過去の人間になっている。めちゃくちゃ怖い。

 

ああ、早くポルノグラフィティが創造するグレートスピリッツ(シャーマンキングの。死後、全ての魂が還っていく場所)の一部になりたい。