正の字で数え上げられ正しさがいくつも並ぶ その一つとなる

「正」という字、なんというか、あまりにも正しすぎで、眺めていると少し怖くなる。

 

まずそのフォルム。払いだとか、はねだとか、そういったものが一切省かれた、これ以上ないほどのシンプルな構成。かと言って、一とか二とか、十みたいな記号っぽさもなく、ちゃんと漢字っぽい。3画目の横棒と4画目縦棒、その絶妙な左右非対称さがそうさせるのだろう。

 

そして漢字の密度。あまりにも均一すぎる。どこを切り取っても同じだけの線量がある。シンプルで均一が故に、これ以上手を加える隙がない。どこをどうアレンジしても、正という漢字の正っぽさは失われて、多分"せい"とは読めなくなる。逆に鬱、とか隙だらけだ。いくらでもアレンジのしようがある。

 

これで例えば正い(ただし・い)とかなら、なんかアンバランスで、まだ可愛げがある(楽しい、とか、寂しい、みたいに、〇〇しい、を勝手にスタンダードだと思っている)。だけどやっぱり正しい(ただ・しい)なのは、一縷の隙も与えまいという気概を感じる。送り仮名まで完璧だ。

 

正という字は、漢字としての一つの完成形というか、それこそ正解なのである。

 

それが多数決にも使われるのだから、もう話が出来すぎている。

 

先にあげたようなシンプルな構成と均一な密度故に、例えば多数決で自分がその一画に数えられたとして、ちょっとでもその線を曲げようものならすぐに見つかってしまうだろう。多数決には完全な賛成か完全な反対しかありえないのだ。ましてやそこから抜けようものなら、きっと一瞬で見つかってしまう。これが鬱だったら、※みたいな部分の下の点が自分だとして、まあいざとなったら抜けてしまっても誰も気づかないだろう、みたいな安心感がある。だけど正にはそれがない。一切の裏切りが許されない、その選択が自分の一生を決めてしまうような、そんな緊張感がある。

 

たしかに、5画という、2つで10画になるキリの良さとか、黒板やホワイトボードに並んだ時の見やすさとか、多数決に使われるのも納得の漢字だ。だけど、その意味は「ただしい」だ。あまりにも出来すぎている。あまりにも出来すぎていて、それ用に作られたのではないかと勘ぐってしまいたくなるほどだ。いや、むしろそうであってほしいと思う。

 

だって、あまりにもその字面が多数決に向いていて、しかもその意味が「ただしい」だなんて、これが偶然である方が怖い。生から死への一直線の道のりとか、そういった類の、人が逃れられない大いなる力、宇宙の力学みたいなものを感じる。結局人間は、どうあがこうが「ただしさ」に行き着くしかないのだ。

 

これが意図的に設計されていた方が、まだ怖さは薄れる。時の設計者の思想は、僕がその立場だとして同じことはしないにしても、まあ理解はできる。そうであれば、このあまりにも出来すぎた正という漢字についてのアレコレも、所詮一人の人間の思想にすぎない。

 

ちなみにタイトルは短歌だ。

 

僕は一時期、掃除機工場のライン作業員をしていたことがあるんだけど、たしかその作業中に思いついた。30秒に一回くらいのペースで左から流れてくる掃除機に、部品を取り付けて右に流す仕事だ。それを9時から17時まで。ひたすら無心で、掃除機を左から右へと流し続ける。思想の与えられない、均一な歯車の一つとして数えられているような気分だった。そんな時に思いついたというのが、これまた出来過ぎているというか、正しすぎて少し怖くなる。