夜になると僕は

夜になると僕は、星を作って遊ぶのです。夜空にペンを走らせて、銀のインクで星を結ぶのです。あなたのことを想いながら、星を結ぶのです。初めて星座をつくった天文学者は、何色のインクで星を結んだのだろう、どうして星を結びたかったのだろう、そんなことを考えながら、僕は星を結ぶのです。

 

だから朝になると僕は、立ちぼうけになってしまいます。太陽が、僕が作った星座を地に落としてしまうのです。僕はその中から水瓶座を探します。中に入った水が日差しで乾ききってしまえば、もう二度と夜が訪れないような気がして、僕は手のひらに水を掬うのです。コップに注いでもすり抜けてしまうので、僕はお椀状に形作った手のひらに水を貯めて、必死に日差しから隠れるのです。

 

やがて夜になると僕は、手のひらの水を空に振り撒くのです。街の光を反射して、飛沫がきらきらと光り、その様子はまるで星のようだと思いきや、ほんとうの星が現れているので、僕は再びペンを走らせて、星を結ぶのです。あなたのことを想いながら、星を結ぶのです。あなたはとてもきれいな指をしていましたから、きっとペンなどは使わずとも、その指先で星を結べてしまうのでしょう。そんなことを考えながら、僕は星を結ぶのです。

 

 

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夜を流れる

寝転がってシーツの皺を数えては

寝返りを打ってまた数えなおす

 

ゆらゆら揺れる独り寝のベッドは

川を流れる小舟です

 

夜には世界中の独りぼっちが

ランタンひとつ載せた小舟に揺られて

東の海へと流されてゆく

 

たまに灯りが消える舟もあるが

決して話しかけはしないのさ

ひそひそ声が届く距離でもないのだから

 

薄れゆく意識の中でふと目をやれば

水面に立つあなたの影

手を伸ばしてみるも

あなたは僕に背を向けて

川岸の方へとそっと歩き出す

 

川岸には何やら楽しげな光が灯っていて

あなたの影を飲み込んでいく

目を凝らしてよく見てみれば

それはいつかの幸せな思い出です

 

追いかけようにも

なにせ臆病な僕だから

舵を取ることもままならず

小さな境内の夏祭りみたいな光の粒は

西の空へと置き去られてゆく

 

夜はどこまでも一方通行な川の上

風に吹かれるばかりの僕らだ

ならば水面に映る月の光を

ひとつ掬い上げ帆にしよう

風を受け、せめて朝まで辿り着けるよう

 

 

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夜は水

葉を落とした街路樹の足元に

綺麗な鱗を見つけんたんだ

きっと夜は水で

この辺りには魚が泳いでいる

 

それは遠い昔に絶滅した

誰も知らない無名の魚で

さみしい人のそばで尾ひれを振りまいて

鱗を一片落とすのさ

 

夜の街を歩いていたら

知らない場所にたどり着いたんだ

きっと夜は水で

この辺りには絶え間ない水流がある

 

それは始まりも終わりもなく

決して淀むこともない水流で

さみしい人はちょっと軽いから

勝手にどこかへと運んでくる

 

夜は少し冷たくて

どこまでも透き通っている

確かな肌触りを感じるが

決して掴むことはできない

きっと夜は水で

さみしい人をゆらゆら揺らすのさ

 

 

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永遠とか

時間とか、そういった概念がめちゃくちゃ怖い。

 

うまく説明する自信はないのだけど、自分への備忘録的に書いておきたいなと思う。久々にブログも発掘したことだし。

  

これはもう小学生とか、そんなレベルでずっと前からそうなんだけど、永遠ってことは例えば1億年先にも変わらず明日があるんだよな、とか考え出すと、怖くて眠れなくなる。

 

1億年先にも明日があって、そのまた1億年先にもやっぱり明日があって、、、いつまで続くんだろうか、と思うけど、いつまでも続くんだよな。永遠ってそういうものだから。めちゃくちゃ怖い(余談だが"一億年先にも明日があることを思えば部屋を満たす永遠"という短歌も作った)。

 

僕は昔から心霊系の映画とかドキュメントとかがすごく苦手なんだけど、これは幽霊に会ったら死に引きずり込まれるから、みたいなことではなくて、幽霊の存在ってすなわち死後も意識が残る場合が存在することの証明になってしまうからだ。そうなると先に書いたような永遠が、単なる仮想概念ではなく、いつか直面する未来になってしまう。めちゃくちゃ怖い。同じように天国とか地獄といった概念も苦手だ。

 

少し怖さのベクトルとしては変わってしまうが、永遠というのはつまり時間が無限に続くということで、この無限という概念は人間にとって相当に厄介だ。人間は知能がある故に理解できないものに恐怖を抱く、という話をどこかで聞いたことがあるが、無限は理解できない概念の筆頭だ。

 

無限ホテルのパラドクスという話がある。ヒルベルトという数学者が提唱した、数学における無限という概念が現実世界に持ち込まれると途端にその解釈が難しくなるよね、といったことを、無限ホテルという例を用いてうまく説明した擬似パラドクスだ(実際に論理的に矛盾があるわけではないが、感覚的に矛盾を感じてしまうパラドクスを擬似パラドクスという)。

 

ここに客室が無限にあるホテルがあり、現在このホテルは満室であるという。ここに一人の客が訪れた場合、この客を泊めるにはどうしたら良いか、という問題を考える。現実にあるホテルの部屋数は有限であり、満室であれば新しく客を泊めることはできないが、無限ホテルではそれができてしまう。

 

どうするのかというと、1号室の客を2号室に、2号室の客を3号室に、といった具合に、全ての客に自分の部屋番号+1の部屋に移動してもらう。そうすると1号室が空くので、ここに新たな客を泊めることができる、という寸法だ。満室なのに新たな客を泊めることができる、というのが一見パラドクスのように見えてしまうのだが、現実のホテルには最後の部屋というものがあり、このような現象は発生しないので安心して良い(無限ホテルには最後の部屋なんてないのでこんなことができてしまう、怖いね)。

 

無限ホテルのパラドクスをもう少し数学的に説明すると、これは実は、要素が無限に含まれる集合の、その個数の話をしている(個数はもちろん無限なので、正確には濃度、という言葉を使うのだけど、簡単に個数と言っておく)。例えば、日本人という集合に含まれる要素の個数は1億2千万だよね、とかそんな話だ。

 

無限ホテルに客を泊めるというのはつまり、客の数を数えることに相当する(さらに数学的にいうとこれは全単射となる写像を作ることに相当するのだけど、この辺の話はむずいので割愛する)。わかりやすく有限ホテルの例を出すと、1億2千万号室まであるホテルに日本人全員が泊まりきり、かつ満室になれば、日本人の数は1億2千万人だよね、と言った具合だ。この方法で、無限人の客を数えてみる。

 

無限ホテルの部屋番号を1号室、2号室、3号室、、、とする。そして無限人の客には1番、2番、3番、、、とネームプレートをかけてもらう。1番の客には1号室に、2番の客には2号室に、3番の客には3号室に、、、と言った形で客を泊めればこのホテルは満室(全ての部屋番号の部屋に同じ番号の客が泊まっている)になるため、無限ホテルの部屋の数と無限人の客の数は同じだと言えそうだ。

 

ここに新たにやってくる客を0番とする。先に紹介した操作というのはつまり、1番の客は2号室に、2番の客は3号室に泊まり直してもらうというもので、こうすると1号室が空くため、ここに0番の客が止まることができる。するとこのホテルは再び満室(全ての部屋番号の部屋に、部屋番号から1引いた番号の客が泊まっている)になるため、再び無限ホテルの部屋数と、先ほどから1人増えた無限人の客数は同じであると言えてしまう。

 

すると何が起こるかというと、最初の客、ネームプレートでいえばつまり【 1, 2, 3, ... 】という集合に含まれる要素の個数と、一人増えた客、つまり【 0, 1, 2, 3, ... 】という集合に含まれる要素の個数は同じである、ということが言えてしまうのだ。これが有限の集合であれば、もちろん前者の集合と比べて後者の集合の個数は1多くなるのだが、無限の集合であればこういうことが起きてしまう。これくらいだと、まあ無限なんだしそんなもんじゃない?と思えなくもないが、それを真面目に論証したのがこの話だ。

 

この話をさらに発展させると、だんだん感覚と合わなくなってくる。例えば、【 1, 2, 3, ... 】という集合(要するに自然数)と、【 ..., -3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, ... 】という集合(要するに整数)の個数も同じになる。こうなるともうわけがわからない。

 

現在このホテルには、1号室には0番の客が、2号室には1番の客が、、、と言った形で満室となっている。ここに ー1、−2、−3、、、というネームプレートをかけたやっぱり無限人の客がきたとしよう。

 

この場合は、0番の客は2号室に、1番の客は4号室に、2番の客は6号室に、、、といった具合に、つまり、自分の番号に1を足して2倍した部屋番号の部屋に移ってもらうといい。そうすると埋まっているのは部屋番号が偶数の部屋のみとなり、部屋番号が奇数となる部屋(これまた無限にある)は全て空くため、−1番の客は1号室に、−2番の客は3号室に、−3番の客は5号室に、、、と言った具合で部屋に入って貰えば、この無限人の客を新たに泊めることができる。

 

というわけで、【 ..., -3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, ... 】の客たちでこの無限ホテルが満室となったため、自然数の個数と、整数の個数は同じになる。これくらいトリッキーでウルトラC的な操作を行えば、例えば奇数の個数と、偶数の個数と、それらを合わせた整数の個数だって全て同じになってしまう。わけがわからない。この辺の感覚との合わなさこそ、無限ホテルが擬似パラドクスである肝の部分であり、無限という概念を実感を持って理解するのがいかに難しいかという所以である。

 

だいぶ遠回りしてしまったけど、もう一度永遠の話に戻ってみる。 

 

永遠というのは時間が無限に続くことであり、無限ホテルの例と合わせて考えてみると、今日から起算した全ての日数が、奇数日後の日数、偶数日後の日数とそれぞれ同じになってしまうのだ。

 

もっと言えば、幽霊とか天国地獄とかどんな形であれ死後も意識が残ってしまう場合、明日の自分、明後日の自分、明々後日の自分、、、と数えた自分の人数と、1日後の自分、3日後の自分、5日後の自分、と数えた自分の人数が同じ、ということになってしまう。数学の世界だからギリギリ、まあそういうもの、なの、かな、、、?と許容できた話が、自らに降りかかる現実として現れてしまう。ああ怖い。めちゃくちゃ怖い。

 

これは結構切実な問題だ。いや、明日の自分と明後日の自分を区別できるのか?という疑問もあるが、僕の場合は結構区別されて感じてしまう。個人的な感覚として、例えば昨日の自分は昨日の自分として、今日の自分とは別に存在しているように感じる(過去は過ぎ去った時間として消失するのではなく、この世界に別レイヤーとして存在し続けているみたいな感じ)ので、同様に明日の自分、明後日の自分も、今日の自分とは区別されてしまう。

 

しかもたちの悪いことに、その未来の自分も、今日の自分とは別にすでに存在しているようにも感じてしまう(これも別レイヤーとして)。例えばなんだけど、昨日には昨日を現在だと認識している自分が確かに存在していて、今日になった自分が思い返してみればその自分はすでに過去の人間であるわけなんだけど、昨日の自分はそこを過去ではなくやっぱり現在だと認識している。ならば本日21時28分現在、今を今と認識している自分もすでに過去の人間なのかもしれなくて、ならば今を今たらしめる所以みたいなものを僕はどこに求めたらよいかわからないのだ。デカルト風に言えば「今思う故に今あり」みたいな、自らの思考、という絶対的根拠が崩れてしまって、簡単に言うと僕は過去/現在/未来の区別があまりついていないのだ。

 

僕が肌感覚として感じているこの辺の話、調べてみると最近の物理学では結構正しいらしい。びっくり。

 

時間は連続(水の量や空の高さみたいに)なように見えて実は最小単位が存在していて(リンゴを1個2個と数えるように)、僕らが過去/現在/未来だと認識している全ての一瞬一瞬が時間の粒として同時に存在しており、それらがネットワークを構成している、みたいな話だ。ちょうど紙芝居をイメージするとわかりやすいかもしれない。過去の場面、現在の場面、未来の場面へとスライドされることによって画面の中では時間が進んでいるように感じるが、実際には全ての場面が同時に存在していて、この場面の次はこの場面、といった関係性によってネットワークが作られている。次の場面に進んだからといって、前の場面を描くスライドが燃えて消失するわけではないし、次の場面は紙をめくった途端突然現れるわけではなく、現在のスライドの後ろにすでに控えている。

 

これ以上説明を続けると間違ったことを書いてしまいしそうなので、この辺の話をわかりやすく説明したページを貼っておくことでお茶を濁したい。

 

honz.jp

realsound.jp

 

この説の提唱者であるカルロ・ロヴェッリ曰く、「時間を不可逆的に流れていくものとして感じてしまうのは、我々がこの世界について無知であるゆえだ」とのことらしい。すごいこと言うな。

 

というわけで先に書いたような話(明日の自分、明後日の自分、明々後日の自分、、、と数えた自分の人数と、1日後の自分、3日後の自分、5日後の自分、と数えた自分の人数が同じ云々)は、仮に永遠というものがあった場合(つまり、この時間の粒の数が無限であった場合)、これはいつか起こるかもしれない未来の話ではなく、すでに起こっている現実なのだ。ああ怖い。めちゃくちゃ怖い。実際に自らの身に降りかかっている現実であるにもかかわらず、この圧倒的な解釈の仕切れなさが死ぬほど怖い。

 

再び怖さのベクトルが変わってしまうのだけど、現在と共に全ての未来が同時に存在しているというこの説を支持すると、僕の周りの全てがあらかじめ決まっていた単なる現象になってしまう、という怖さもある。さっき落としてしまった携帯とか、それだけならまだしも、友達や恋人の言葉とか、僕以外の全ての人の言動さえ単なる現象に見えてしまう。

 

この僕ももちろん現象なんだけど、どうしても自分のことだけはそうは思えない。僕は僕の思考を感じることができるからだ。それも含めて現象に過ぎないのだと頭では理解できるが、どうしても体感として納得することができない。孤独だ。究極の孤独だ。めちゃくちゃに怖い。

 

最近はずっとこんなことを考えていて不眠がひどい。心療内科に行けば、眠剤も出すけど根本的な悩みからちゃんと遠ざかるように、みたいなことを言われたりもするけど、こんなのどうやったらいいんだ。

 

だいたい書きたいことは書き終わったので読み返したみた。ほら、

ならば本日21時28分現在、今を今と認識している自分もすでに過去の人間なのかもしれなくて

 とか書いてた自分はもう過去の人間になっている。めちゃくちゃ怖い。

 

ああ、早くポルノグラフィティが創造するグレートスピリッツ(シャーマンキングの。死後、全ての魂が還っていく場所)の一部になりたい。

 

 

 

 

 

 

祖星

夢を見た。見渡す限りの暗闇、それは誕生して間もない宇宙であった。星が生まれた。この宇宙で最初の星であった。祖星とでも言うべきこの星は、しばしの明滅を繰り返した後、二つ目の星が生まれるのを待つこともなく、爆ぜてしまった。終始独りであったゆえ、その存在を知るものは居なかった。星の欠片はこの宇宙に遍く散らばり、後に数多の新星となった。この星たちもやはり、祖たる星の存在を知らぬまま、やがて爆発を起こし新星を生んだ。おおよそ、そのような夢であった。

 

祖星に始まり、絶え間なく続く星の明滅の、その果てに生まれた新星こそが、私であるとでも言うのであろうか。そもそも、祖星たるお前は、本当にそこに居たのか。この夢が、確かに存在したお前からのメッセージであるとか、そのようなことは思わない。夢は夢である。しかし、お前の存在を否定することもできない。お前は本当に存在したのか否か。これは、決して答えを知ることのできない命題である。この先どれだけ科学が発達し、遺伝子の仕組みや、宇宙の法則が明らかになったところで、永遠に確かめようのない命題なのである。ただ、私が生きてきた今日までの世界にも、実はこの命題が在り続けていたことを、そしてこれからも在り続けていくことを、私は決定的に知ってしまったのだ。

 

それからというもの、私はどうにも、それまでと同じ景色を見ることができなくなってしまった。この机の木目も、タバコの煙も、窓に見える木々の揺れも、その奥に望む雲の動きも、全く変わって見えるのだ。例えばどう変わったのかと、説明するのは至難である。なぜなら、私はもはや以前の景色を思い出せないのだ。いまの私にわかるのは、もう元のようにも戻れないのであろうという、ただそれだけなのである。

 

 

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フェイクマスク

SFみたいに街から人が消えた未曾有のパンデミックも終息の兆しを見せ、街はすっかり普段通りの様相を取り戻している。

 

だけど一つだけ、以前とは決定的に違うことといえばそう、マスクだ。

 

皆マスクをしている。ついにはマスク警察なんて言葉も生まれた。最近はもはや感染予防というよりも、マスクしてますよ、というポーズを周りに示すためだけに、着用している人も多そうだ。

 

かくゆう僕も、その一人。

 

あれはうっかりマスクを忘れて書店に入ってしまった時のことだ。書店の客たちは皆一様にマスクをしていて、なんだかその視線がむず痒く、針のむしろのように感じてしまい早々に店を出てしまった。それからはどこへ行くにもマスクをしている。

 

一体いつまでこんな状況が続くのだろうか。正直、これからの季節は地獄だ。

 

なんてことを考えながら家でスマホをいじっていたら、こんな記事を見つけた。

 

『通気性抜群 フェイクマスク発売』

 

どうやら風をよく通し、涼しく着用できる代わりに、感染予防効果0のマスクらしい。

完全に「マスクしてます」ポーズをとるためだけのものだが、僕の目にそれはとても魅力的に映った。

 

早速、普通のマスクを着用して買いに出掛ける。蒸し暑いマスクともこれでおさらばだ。

 

自らの吐息に口元を蒸らされながら、額に汗をにじませてたどり着いたドラッグストアで、それを見つけた。なんと最後の一つ。良かった、運がいい。

 

早速帰り道に着用してみる。口元を微かに風が通り抜ける。さっきまでの蒸し暑さが嘘のようだ。これはいい。画期的だ。

 

それからはどこへ出掛けるにもこのフェイクマスクを着用した。

書店へも、近所のコンビニへも、少し遠くのドラッグストアへも。

 

そして僕は、あることに気づく。

どこのドラッグストアでも、フェイクマスクが品薄になっているのだ。

 

きっと僕のように、みんなフェイクマスクをありがたがっているのだ。だけどこのマスクは洗濯して使うことができる。徐々に徐々に、何度も品薄を繰り返しながら、今頃は日本中の国民がこのマスクを手にしているんだ。そういえば『フェイクマスク 出荷枚数1億枚突破』なんて記事も見かけた気がする。

 

そう、みんなフェイクマスクなんだ。 

 

僕も、コンビニへ行く途中にすれ違った通行人たちも、マスクをしていない人を罵るあの老人も。

 

なんてことだ。これじゃあなんの意味もない。誰もマスクをしていないのと同じじゃないか。

 

そしてついに、恐れていたことが起きる。感染者数が再び増加し始めたのだ。当たり前だ。本当は誰もマスクなんてしていないんだから。

 

本当はみんな、分かっているはずだ。みんなフェイクマスクだってことを。感染者数増加のニュース、みんな観ただろう。そしてその原因に、思い当たる節があるだろう。

 

こんな不毛なことはもうやめよう。誰か言い出してくれ。感染者増加の原因はフェイクマスクだって。そんなものもう外してしまおうって。

 

僕には無理だ。だって自分はフェイクマスクでしたって白状するのと同じじゃないか。それにまた、蒸し暑い普通のマスク生活に戻ってしまうじゃないか。

 

そして数日後、誰もが待ち望んだニュースが飛び込んでくる。

 

『一億総マスク社会の日本で第2波 マスクに予防効果なしか』

 

よかった、これでようやくマスクを外せる。

正の字で数え上げられ正しさがいくつも並ぶ その一つとなる

「正」という字、なんというか、あまりにも正しすぎで、眺めていると少し怖くなる。

 

まずそのフォルム。払いだとか、はねだとか、そういったものが一切省かれた、これ以上ないほどのシンプルな構成。かと言って、一とか二とか、十みたいな記号っぽさもなく、ちゃんと漢字っぽい。3画目の横棒と4画目縦棒、その絶妙な左右非対称さがそうさせるのだろう。

 

そして漢字の密度。あまりにも均一すぎる。どこを切り取っても同じだけの線量がある。シンプルで均一が故に、これ以上手を加える隙がない。どこをどうアレンジしても、正という漢字の正っぽさは失われて、多分"せい"とは読めなくなる。逆に鬱、とか隙だらけだ。いくらでもアレンジのしようがある。

 

これで例えば正い(ただし・い)とかなら、なんかアンバランスで、まだ可愛げがある(楽しい、とか、寂しい、みたいに、〇〇しい、を勝手にスタンダードだと思っている)。だけどやっぱり正しい(ただ・しい)なのは、一縷の隙も与えまいという気概を感じる。送り仮名まで完璧だ。

 

正という字は、漢字としての一つの完成形というか、それこそ正解なのである。

 

それが多数決にも使われるのだから、もう話が出来すぎている。

 

先にあげたようなシンプルな構成と均一な密度故に、例えば多数決で自分がその一画に数えられたとして、ちょっとでもその線を曲げようものならすぐに見つかってしまうだろう。多数決には完全な賛成か完全な反対しかありえないのだ。ましてやそこから抜けようものなら、きっと一瞬で見つかってしまう。これが鬱だったら、※みたいな部分の下の点が自分だとして、まあいざとなったら抜けてしまっても誰も気づかないだろう、みたいな安心感がある。だけど正にはそれがない。一切の裏切りが許されない、その選択が自分の一生を決めてしまうような、そんな緊張感がある。

 

たしかに、5画という、2つで10画になるキリの良さとか、黒板やホワイトボードに並んだ時の見やすさとか、多数決に使われるのも納得の漢字だ。だけど、その意味は「ただしい」だ。あまりにも出来すぎている。あまりにも出来すぎていて、それ用に作られたのではないかと勘ぐってしまいたくなるほどだ。いや、むしろそうであってほしいと思う。

 

だって、あまりにもその字面が多数決に向いていて、しかもその意味が「ただしい」だなんて、これが偶然である方が怖い。生から死への一直線の道のりとか、そういった類の、人が逃れられない大いなる力、宇宙の力学みたいなものを感じる。結局人間は、どうあがこうが「ただしさ」に行き着くしかないのだ。

 

これが意図的に設計されていた方が、まだ怖さは薄れる。時の設計者の思想は、僕がその立場だとして同じことはしないにしても、まあ理解はできる。そうであれば、このあまりにも出来すぎた正という漢字についてのアレコレも、所詮一人の人間の思想にすぎない。

 

ちなみにタイトルは短歌だ。

 

僕は一時期、掃除機工場のライン作業員をしていたことがあるんだけど、たしかその作業中に思いついた。30秒に一回くらいのペースで左から流れてくる掃除機に、部品を取り付けて右に流す仕事だ。それを9時から17時まで。ひたすら無心で、掃除機を左から右へと流し続ける。思想の与えられない、均一な歯車の一つとして数えられているような気分だった。そんな時に思いついたというのが、これまた出来過ぎているというか、正しすぎて少し怖くなる。